オーガニック

Organic 2009

Journey into exile
1959年、ダライ・ラマ14世がインドに亡命して以来、老いも若きも多くのチベット人が危険なヒマラヤ山脈を超えてインドのダラムサラにやってくる。そして今日そこには6千人以上のチベット人が暮らす亡命政府があり、そこに暮らすほとんどの人が中国に侵略される以前のチベットの思い出を持ち続けている。
チベット亡命政府の国際情報を担当するケサン・タクラさんは「私は世界の屋根(チベット高原)にあるプリという小さな町で生まれました」「私は毎年行われる祝祭や馬に乗って寺院を訪問したことを鮮明に憶えています」と語る。
ラサで店を経営していた彼女の父親はしばしばインドに取引に行っていたという。そして1959年のある日、チベット情勢がますます悪化したときに父親は幼い子供たちを連れてインドに亡命した。
「まだ幼かった私たちは荷駄と一緒に馬に乗せられて旅をしました」「そしてインドに到着したときすべてが変わりました」というタクラさん。インドに到着してからチベット情勢を電報で知るたびに、もうそこに帰るのは不可能でであると悟ったという。
現在12万人以上のチベット人が祖国を追われ世界中に散在している。その多くが家族に別れも告げずチベットを去った若者たちで、ある者は中国政府に抗議し、収監され、服役後に亡命し、またある者は歴史、言語、芸術を含む伝統文化を研究するために亡命する。
12年前17才で亡命してきたある僧はこう語る。「私の家族は羊飼いで、多くのチベット人と同じようにダライ・ラマに会うことを夢見ていました」「両親は1959年以前のチベットを知っていましたが、それを語ることさえ許されませんでした」
その後、彼は仲間と共に軍のパトロールを避けながら1ヶ月かけてヒマラヤ山脈を越えた。食料もなく夜通し歩き続け、途中で仲間が病気になっても彼を置き去りにして行くしかなかったと、その旅がいかに過酷であったことを語る。
そして今、ダラムサラには新しい世代の難民たちがいる。「The Tibetan Children's Village」はチベットから来た子供たちを収容する学校である。そこで生活をするタシちゃんは8才のときに妹とチベットから亡命した。
「私がチベットにある学校に通っていたとき、学校長はチベット人でした」「でも彼女は中国語しか話せませんでした」「それが両親が私たちをインドに送った理由のひとつです」「今私たちはチベットの歴史や言語を学習しています」と語るタシちゃん。
少女はさらにインドで中国語も勉強しているという。「チベットに戻ることは難しいことだと思うけど、チベットの将来を考えると中国語を身につけておくべきだと思います」と勉強に多忙な彼女はチベットの未来に希望を抱いている。
過去毎年2千人から3千人のチベット人が他国へ亡命していたが、昨年は動乱の影響でその数は数百にとどまった。インド政府はいかなる難民の受け入れを拒否したことはない。しかし、そのルートはネパールを経由しなければならなく、この1年でその国境警備は強化され、亡命することはさらに難しくなった。その間にも続々と漢民族系中国人がチベットに流れこんでいる。そしてチベット文化とその生活様式がますます危険にさらされているのである。
もし、唯一の亡命ルートが危険にさらされるなら、チベット人のアイデンティティーを維持する選択肢が無くなってしまう。今彼等のアイデンティティーを保つには亡命しかないのだから。
5 Mar 2009